撃たれたのに数時間もの間、救助されなかった警官。
犯人に撃たれ、死亡したまだ23歳の警官。
犯人逮捕の為に手を尽くす警察の邪魔をするマスコミ(狙撃の準備をしているスナイパーの様子を報道したりしたそうで)。
そんな凶悪犯を前にどこか遠慮のようなものさえ感じる警察の態度。
そして18日午前2時現在もまだ事件は解決していません。
まったくやりきれない事件です。
警察は拳銃を振り回すような凶悪犯に対しては犯人への攻撃なども含めたもっと毅然とした対応をするべきですし、なにより世論や政治は警察が凶悪事件の解決のために行う努力を最大限に支持し、バックアップしないといけませんね。
10年ぐらい前に「マルチメディア」なんて言葉が流行っていて、「マルチメディア家電」なんてものが実験的にどこかの会社で作られたころにも同じようなことを言っていた人がいました。
その当時は「冷蔵庫がインターネットと接続され、冷蔵庫の中の材料が少なくなると自動的に発注する」とかそういう話だったように思います。
それが20世紀末の話だったわけですが、それでは21世紀になった現在、それが実現されているかというとそうはなっていないわけです。
そういう技術があるからといって、それが実際に普及するわけではありません。
新たな技術が普及するためには、単に大量生産されるだけではなく、とても便利なものでなければならないのです。
夫婦喧嘩をモニタリングして勝手に食器を発注したり、消化されるまでを実況してくれる食材なんて欲しいですか?
いらないものは普及しないんです。
最近のSFやサイバーパンク作品だってもっと現実的ですよ。
本人はジョークのつもりで書いてるんでしょうけれども、どうもこのシリーズはテクノロジーに対する愚痴っぽくとれる後ろ向きな話ばっかりで面白くないですね。
多くの場合はこういうPCをなにも知らずに買おうとする人にとっては、逆にこういうPCがベストチョイスだったりするんですよね(そこからのめりこんでいくと途端にパワー不足や拡張性の無さに頭を悩ませることになりますが)。
こういったPCのAV機能やバンドルソフトは、コンピュータをコンピュータと考える人にとっては無駄どころか邪魔な機能と考える一方、家電と考える人にとって「Office・ウェブ閲覧・メール機能に加えて、AV機能がついてたり省スペース」というのはお得だと考えるわけです(たとえば携帯電話の「通話ができることに加えて、メールができたりウェブが見られたり音楽が再生できる」という追加機能のようなものなものだと考えるわけですね)。
そういう人たちにとって、バンドルソフトやAV機能の無いピュアなPCやLinuxはいわば「通話しか出来ない携帯電話」のようなものであって、必要とされないのです(私もPCはシンプルですが、携帯電話は追加機能満載の機種買いましたし)。
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20070423k0000m040113000c.html(毎日新聞)
優子さんは「本当にありがとうございました。父伊藤一長はこの程度の存在でしたか。父は浮かばれないと思います。残念です。父の愛する長崎でこんな仕打ちを受けるとは思いませんでした」と声を詰まらせた。
いくらなんでもこの発言はいただけないです。
市長の死を選挙活動に利用しようとした、と受け取られかねないですし、なにより単純に有権者にとっては不快な発言です。
政治には市民の未来の生活が関わります。政治は多くの市民の情を酌みその幸福を追求すべきですが、その幸福のためには政治は冷徹であるべきでしょう。
http://headlines.yahoo.co.jp/hlωa=20070419-00000408-yom-soci
長崎市長銃撃、容疑者の文書などテレ朝から押収
長崎県警の捜査本部は19日午前、城尾容疑者の差出人名義でテレビ朝日(東京)に郵送された、伊藤市長への不満を記した文書とカセットテープ4本を押収した。
テレビ朝日広報部が明らかにした。
テレビ朝日は任意提出を拒んだが、県警が裁判所の差し押さえ令状を示したという。
なんででしょう。
今夜の報道ステーションか夕方のニュースで拒否した理由を説明してもらいたいですけれども。
知事の理屈は疑問としてはもっともだと思います。
その疑問に対して、マスコミ側はなにも情報がないときでも定例会見を行う必要がなぜあるかを、具体的に知事に説明する必要があったでしょう。
しかしそれに対するマスコミ側の反応といえば「稚拙な質問だ」「侮蔑した質問ですよ」「県民軽視ですよ」といういたって感情的なもので、一般市民である私の立場からは記者側に疑問符をつけざるをえないものでした。
マスコミは、自分たちのカメラを通して自分たちも同様に国民の関心にあることを自覚するべきでしょう。つまり、知事だけではなく、それを見ている国民にも説明するべきでした。
そうした説明のない感情的な批判は国民から「自分たちの利益(=記事を書いて収入を得る)ためにこうした反応をしているのではないか」と勘繰られてもしかたがないでしょう。
仮に自分たちの権益のためではないとしても、今回のようにまるで報道を神格化し、自分たちはその全権を付託された神官であるかのような高慢な振る舞いはぜひ反省し、かつて「自分たちが監視する」と言い放った権力に自らがなってしまったことを自覚して報道をすべきだと思います
加西市の採用に関する規定では、市の幹部でつくる試験委員会が採用候補者を選定し、名簿を作成。市長がその名簿に基づき、採用者を決定する手順になっていた。
05年の試験で、中川市長は「採用者担当者に選考眼があるとは思わない」として従来の手順を変更し、偏差値を導入するなど独自の基準を設けた。
記事ではよくわからないところですが、市の試験委員会の選定基準と、市長の選定基準の両方がわからないとどちらが正しいのかわかりかねますね。
それまでの試験委員会の基準が公平なものなのか、市長の基準が公平なものなのか、あるいはどちらも公平だけれど何を重視するのか違うということもあります。
izaの記事は単に市長が強権的に選定基準を変えた、と言いたいように見えますがフェアじゃないですね。
他にも(日常的に論争の火種となっている)無断リンク禁止や、自分のブログのエントリにトラックバックされたときに、トラックバック元のブログのエントリのコメントにお礼を書き込む(こちらは相手に強制する性質のものじゃないのでトラブルには発展してませんが)といった少々不可解な常識がありますよね、ウェブには。
HTML3.0が浸透しだして、ブログやSNSというものがなく、ネット上でのコミュニケーションツールといえばPerlで作られた掲示板とチャットの
つまり、自分がなんらかの行動をしていて、そしてそれを間違いなく人が見ているのにそれに対してリアクションがない=無視されている、と感じて不愉快になるわけです(そして、いわばこういう「構って」的な思惑が見え隠れするのが批判を批判を集めるわけです)。
テレビや本とは違い、自分の行動に対してリアクションがリアルタイムに返ってくるツールといえばちょっと前までは電話ぐらいだったわけですから、新鮮な体験だったんでしょう。
それがこの記事のようにリアクションを求める原動力になっているんじゃないかと私は思います。
それとは別に彼らがなぜそれを「常識だ」と思っているかといえば、たとえば「おはよう」と挨拶されたら「おはよう」と挨拶を返す、というような日常的な常識を元に、それを無意識にウェブに当てはめて考えているのではないかと思います。だから相手も自分と同じ常識を共有しているものだと思い込むわけです。
ところが、日常の常識を共有してはいても、それにどのウェブ上の行動が対応しているかという知識は共有していないからトラブルが起きるのではないかと思います。
文化や風土の違う外国では常識もまた違うように、ウェブもまた常識の土台となるものが違うためにこういった常識の齟齬を起こすんですよね(しかもその土台はウェブサイト・ブログ・SNSと、システムが違えばまた違ってくるわけで)。さらに厄介なことに多くのユーザはそれについて無自覚です。
明文化されていない慣習がまるで法のようにそれに従わない者に強制力を行使しようとして問題になる例はウェブでなくても数多くありますが、ウェブはそれが及ぶ範囲が広く平坦であるため問題をより増幅してしまっているように思います。
踏み逃げに限らず、ウェブでは「なぜ?」と問われて理詰めで答えられないすべての「常識」は同じようなローカルルールとなってしまう可能性があるんじゃないかと思います。
『着うたフルの1曲あたりの料金は着うたの倍以上の300円程度と割高』とはいっても、シングルCD一枚が1,000円ほどもすることを考えればこれはじゅうぶんに安いと思います。
KDDI(au)の配信サービスは私も利用していますが、最近の機種で対応している音楽配信サービス『LISMO』ではAppleのiTunesに相当する管理ソフトウェアau
さすがに音楽プレイヤーの管理ソフトとしてはiTunesを追う立場ですが、もちろん携帯電話の管理ソフトなのでスケジュールやアドレス帳の管理もできます。
AppleがiPhoneという携帯電話業界への参入をずいぶん前に発表しましたが、これは携帯電話がiPodの牙城を崩すかもしれないことに先手を打つためなのかもしれませんね。
今後、私が期待したいのは値下げよりもまずは取り扱いのしやすさ(着歌フルのファイルは携帯電話上では他のデータファイルとは扱いが違ったり、前述のau
たとえアンダーグラウンドなRMTを排除し、代わりにゲーム運営会社が公認したとしても、ネットワークゲームの主要なプレイヤーたち(と私)はおそらく否定的な態度をとると思われます。
こうしたRMTに対してのネットワークゲームの主要なプレイヤーたちが否定的な態度をとるのにはいくつかの理由があります。
まずは感情的な問題として、スポーツで言うところのドーピングにあたるような行為とみなされている、というものがあります。
日本では「スポーツは必ず肉体的な運動を伴うもの」と考えられているので、仮に定着するとしてもおそらく非常に時間を要するでしょうけれども。
次にゲームバランスの問題があります。
特にプレイヤーキャラクター同士が戦って勝敗を競うようなゲームでは「最終的に多くの現金をつぎ込んだ方が勝つ」──、極論するとゲームではなく資金力の比べあいになるという懸念が強く、また現実に「単純に資金力の差で勝負がつかず、しかしお金をより払った分、なにか得をする」という非常に微妙なゲームバランスをとることが求められます(そして現実にはこのバランスの維持は困難です)。
どれだけRMTがプレイヤーから嫌われているかという最近の例として、先日、NHKのクローズアップ現代という番組でRMTについての特集が放送されたときの反応が挙げられます。
放送の中でRMTをしているというプレイヤーが出演したところ、放送を観た多くのプレイヤーが「あいつは誰だ!」と放送された中の断片的な情報からゲーム内のキャラクターをあっという間に特定し、糾弾したそうです。
それに加えて私がRMTに否定的な理由として、ゲーム世界との整合性の問題があります。
RMTが多く関係するネットゲームといえばMMORPGですが、他のジャンルではともかくRPGで(少なくとも原理主義的には)重要なのはそのゲームの舞台となる世界とプレイヤーキャラクターとの関係(プレイヤーはキャラクターを操作できるものの、あくまでもプレイヤーとキャラクターの間に因果はない。芝居の役者と役の関係を思い浮かべてください)であると私は考えています。
そこにまったくゲーム外の事象が干渉するのは、芝居の筋書きが役者の都合で左右されるような、いわば「野暮な行い」であり、大きくその趣を損ねてしまうのです。
記事中では例としてセカンドライフが引き合いに出されていますが、セカンドライフはRPGでは決してなく、Yahooやlivedoor、ハンゲームなどで提供されているアバター(プレイヤー自身と密接に結びついた象徴としてキャラクター)としての色合いが強く、その点ではRMTは有効ではあってもそれがすべてのオンラインゲームに当てはまる理屈であるとは到底思えません。
RMTは確かにビジネスとしては魅力的ですが、そもそもそれによってゲームとしての魅力を損ねては本末転倒だと思うのです。


by thinking
「ウェブがなかった頃」の終わ…